「遠山の金さん」を巡る諸説
青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたといわれる。有名な「桜吹雪」である。しかしこれも諸説あり「右腕のみ」や「桜の花びら1枚だけ」、「背中に女の生首」と様々に伝えられる。また、彫り物自体を疑問視する説や通常「武家彫り」するところを「博徒彫り」にしていたという説もある。彫り物をしていた事を確証する文献はないが、時代考証家の稲垣史生によれば若年のころ侠気の徒と交わりその際いたずらをしたものであると推測される。続けて稲垣の言によれば奉行時代しきりに袖を気にして、めくりあがるとすぐ下ろす癖があった。奉行として入れ墨は論外なので、おそらく肘まであった彫り物を隠していたのではないかという。
また景元は長年痔を患っており、馬での登城が非常に困難となり幕府に対して駕籠での登城を許可してもらうよう申請し受理された文書が残っている(景元の身分では駕籠での登城は許されていなかったため、疾病を理由に申請した)。
景元の死後、講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し陣出達朗の時代小説「遠山の金さんシリーズ」などで普及した。現代ではドラマが製作された影響を受け、名奉行として世間に広がり大岡忠相と人気を二分することもあるが、ドラマのような名裁きをした記録は殆どない。そもそも三権分立が確立していない時代、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅している。言わば東京都知事と警視庁長官を兼務したような存在であり、現代で言う所の裁判官役を行うのは、町奉行の役割の一部でしかない(もっともこれは大岡にも言えることである)。
幼名は通之進。公職についてからは、従五位下大隅守に叙任。官職はのちに左衛門少尉(左衛門尉)に転じた。明知遠山氏の分家の6代目にあたる人物である。父親は長崎奉行を勤めた遠山景晋。
青年期は複雑な家庭環境から家を出て町屋で放蕩生活を送るが後に帰宅、家督相続後、勘定奉行、町奉行に就く。天保の改革の実施に当たっては南町奉行の矢部定謙とともに老中・水野忠邦や鳥居耀蔵と対立しながらも様々な政策を実施するが、鳥居の策謀により矢部が罷免される。鳥居が南町奉行となると一人で水野、鳥居と対立し水野が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して浅草猿若町への小屋移転だけに留めた。すなわち、この景元の動きに感謝した関係者がしきりに景元を賞賛する意味で『遠山の金さん』ものを上演したのである。鳥居や水野との対立が「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図を作り上げた(ただし鳥居はそれ以前から江戸っ子からの評判が悪かった)。
天保14年(1843年)、鳥居の策略によって北町奉行を罷免され当時は閑職となっていた大目付になる(地位は上がったが実質的には閑職)。2年後、逆に景元から水野への讒言によって鳥居が失脚し南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは、極めて異例のことである。その後、水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重用された。
嘉永5年(1852年)に隠居すると剃髪して帰雲と号し、3年後63歳で死去。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
モデルとなったのは遠山景元という南町奉行を勤めた人物だそうです。
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